※戦争のお話です。人によっては苦手な内容かもしれません。苦手な方は、どうぞスルーしていただけたらと思います。

アメリカのウィスコンシン州ミルウォーキーで日本語教師をしていたのは、1995年。それは、終戦50周年、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件の年でした。

敢えて言語化しないで、味わい続けたい感覚

待ちに待ったイースターホリデー。アメリカに行ったら絶対に行こうと決めていたスミソニアンを目指して、ワシントンD.C.に飛びました。

スミソニアン航空宇宙博物館では、終戦50周年の特別展として「エノラ・ゲイ展」が開催されていました。この特別展は、退役軍人や一般市民から猛烈な反発を受け、館長が辞任にまで追い込まれ、世界中で大きく報道されていました。

広島に原子爆弾を投下したB-29と、原寸大の原子爆弾の模型を目の前にしたとき。こんな小さな物体が、あんな甚大な被害を及ぼす破壊力を持っていたのかと、ショッキングで、なんとも言えない複雑な気分でした。

その感覚は、いまでも言葉にするのがとても難しいです。どこかに、そのとき受け取ったままの感覚を大切に思う気持ちがあって、敢えて言語化しないで味わい続けたいのかもしれません。

阿波和紙の紙芝居

ミルウォーキーで、日本の文化を紹介する機会がありました。現地で知り合いになったヤヨイさんと相談し、終戦50周年の節目に、上野動物公園のゾウの花子のお話を、紙芝居で紹介することにしました。一時帰国の際に、地元徳島の阿波和紙を購入して、ミルウォーキーまで大切に持ち帰りました。

小さい頃、我が家では、毎年8月15日に、子どもたちが祖父母から第二次世界大戦の実話を聞くのが習慣になっていました。イデオロギー的なことじゃなくて、食べものがなくてお芋のツルを食べたとか、標的になるのを防ぐため夜間は照明を灯せなかったとか、そういう一般市民のリアルな風景です。

ヤヨイさんとは、人間はどうして戦争を繰り返すのかや、人種やジェンダーの差別、格差や貧困について、人の愚かさや命の尊さについて、深く深く意見を交わしました。ときには熱く、ときには大爆笑しながら、そしてときには泣きながら。

いろんなことを語り合いながらの楽しい作業も終わりを迎え、二人で浴衣を着て、いろんなところで思いのこもった紙芝居を披露しました。ミルウォーキー市のとある公立高校では、最初は「はぁ?日本文化?」と斜に構えていた生意気盛りの高校生が、ボロボロ涙をこぼしながら紙芝居に見入っていました。それぞれが、何らかの形で心を動かされたのだと思います。

「思い出したくない」

紙芝居の準備をしていた頃のことです。わたしは、一時帰国のチャンスをとらえ、改めて祖母に戦争の話を聞かせてほしいとお願いしました。大人になってから聞く戦争体験者の話を、自分はどう受け止めるのか、どう感じるのかを、確かめてみたいと思ってのことでした。祖父は既に他界していたので、祖母に尋ねてみたのです。

そのとき祖母は、「思い出したくない」と言いました。

最初は「おばあちゃん、お話してくれたらいいのに」と思いました。でも、時間が経つにつれて、祖母は自分の中の戦争を消化しきれず、封印しようとしているのではないかと思うようになりました。祖母は、発語せずして多くを語り、わたしに考える機会をくれたのです。

敵とか味方とか以前に、全ての戦争体験者に、それぞれの形で消せない記憶が刻まれている。そのことを、忘れないようにしようと思いました。

わかったつもりになっていた

日本でとらえる戦争、アメリカでとらえる戦争、学校教育で教わる戦争、家庭で聞く戦争、博物館で知る戦争、報道で知る戦争。時代背景や、発信する人の立場や考え、切り取る視点によって、語られることは異なります。だからこそ、戦争というたくさんの「起こったことのかけら」を知ることを、わたしはやめません。

当時20代だったわたしは、戦争についてあまりにも知らなすぎたし、深く考察したことがないくせに、わかったつもりになっていた自分の浅はかさを恥じました。

語られた言葉だけじゃなく、語られなかった言葉に耳を澄ませること。

祖母の沈黙は、いまも、わたしのなかで多くを語り続けているのかもしれません。