「横須賀に知り合いがいるの。帰国したら、探してもらえないかしら?」

シスター・シェリーは、第二次世界大戦が終わったばかりの1945年12月に、横須賀海軍基地に船から降り立ったといいます。聞けば、横須賀に駐留することになる軍関係者の子どもたちの英語教師として、日本に派遣されたそう。当時懇意にしていた日本人家族がいたのだけれど、もう何十年も前のこと、いつしか互いに疎遠になってしまった。もし、もう一度連絡が取れるなら、懐かしい話がしたい、と。

ぶっちゃけ、わたしは、どっひゃーってなりました。

だって、その立場の人に、初めて会ったから。それまで会った、戦中戦後をリアルで体験している人は、みな、占領された側の人でした。1945年の横須賀に、占領した側として降り立った人と直接触れ合ったのは、後にも先にも、このときだけです。

発音にめちゃくちゃ厳しい人

ミルウォーキーのカソリック系の私立小中学校で日本語教師をしていたわたしは、学校の系列の修道院の一室を借りて暮らしていました。リタイアした修道女が余生を過ごす修道院で、そこで出会ったのが、シスター・シェリー。わたしは彼女から、英会話を習っていました。

当時、シスターは78歳。質素ながらも小綺麗な格好をした、背筋がすっと伸びた、健やかな人でした。イギリスからの移民で、正統派イギリス式英語遣いであることを自負していて、発音にめちゃくちゃ厳しい。できるまで何回も何回も繰り返しやらされて、それが苦痛すぎて、たまに仮病でレッスンを休んだことさえありました(笑)

おかげで、アメリカ生活の最後の方は、初めて会った人から「とてもきれいな英語だね。アジアの人に見えるけど、どこの出身だい?」と聞かれるくらいの英語が、話せるようになっていたのです。

役に立たなかったハイスコア

日本語教師でアメリカに派遣されるには、それなりの基準を求められたので、わたしは当時、TOEFLでハイスコアを獲得していました。

でも、現地では、何の役にも立ちませんでした。

語彙力や単語力が未熟なのもさることながら、自分の考えをしっかり発言できるだけの「わたしは○○と思います」が、あまりにも薄っぺらかったから。よく考察していない、探究していない。そして、頭の中で思っても、それを言語化して人に伝えるのは容易ではない。日本語でそれができないのだから、英語でできるわけがありません。

それなりに勉強してから渡米したつもりだったのに、答えられない自分に、絶句しました。英語ができないだけじゃなくて、日本について知らなすぎたし、自分の意見がなさすぎたし、自分の世界が狭すぎたのです。

ジーンズと50年

いまでも印象に残っているのは、出会った初日の、シスターのひとことです。ジーンズをはいていたわたしを見て——

「日本人もジーンズをはくの?アメリカ軍がそんな習慣を導入してしまったのかしら?」

そうだよね、終戦直後の日本で、ジーンズをはいている人はきっといなかったよね。でもさすがに50年も経って、ジーンズは日本人の間で市民権を得て、おしゃれな着こなしも一般的になってるよー。

と思いながら、シスターにせっせと日本のことを伝えようとすることも、自分の国のことを知り、伝える練習になっていたように思います。

シスター・シェリーとの英会話レッスンの時間は、英語そのものというよりも、横須賀でシスターが感じたことと、その50年後の日本でわたしが感じていることの、交換の場になっていました。それを証拠に(?)、わたしの英語力はもうすっかり劣化してしまったけれど(笑)、シスター・シェリーとの交流は、よく覚えているのです。

教える・教わるの一方通行より、互いの見てきた景色を手渡し合う往復のほうが、ずっと深く残るのではないでしょうか。