友人が、親の遺産相続の話をしてくれました。

相続の対象は、友人と弟さんの二人。弟さんと同じ屋根の下で暮らしていたのは高校生までで、大学進学を機に、別々に暮らし始めました。以来、年に数回会うか会わないかの距離感。相続の話は、結果的にお金の話になります。お金の価値観て、人生の価値観といっても過言ではないくらい、生き様が現れます。いくら兄弟でも、大人になってからの価値観を知る機会って、意外と少ないものです。

友人は、弟さんと関係が悪いわけではないし、相続で揉めたりもしていません。ただ、とにかく、会話が通じない。まるで、他の惑星の人かと思うほど通じなかったと言うのです。

なかったことになっていた思い出

たとえば、一緒に暮らしていたとき、同時に体験したエピソードの見方や受け取り方が、全く異なる。友人が大切に思っているエピソード自体が、弟さんの中ではなかったことになっていたり、その逆もしかり。友人が思う母親像と、弟さんが思う母親像は、全然違う。

友人は、感性豊かなアーティスト。弟さんは、理数系が得意な会社員。友人は直感的で、弟さんは論理的。女性・男性、第一子・第二子と、たしかにいろんな違いはあるけれど、そういうことだけじゃない。ここまで違うのかというほど、受け止めが違っていて、面食らったそうです。

ひとり一宇宙探究家のわたしとしては、こういう具体的なエピソードが、よだれが出るほどのごちそうです(笑)

一人ひとり、異なるフィルターを通して世界を見ているのは、脳科学でも認知科学でも明らか。人の数だけ宇宙があるなんて、なんて面白いんでしょう!

サッカーの人に、バスケのゴール

人は、わかってもらえなくて悲しいとか、誤解されて悔しいとか、やるせない思いで心がズキンと痛むことがあります。でもそれは、違う宇宙を見ている人に、自分の期待する反応をしてほしい、自分のイメージ通りに受け止めてほしいという、一方通行の期待の押しつけになっているとも考えられます。

サッカーやってる人に、バスケのゴールにシュートしてよって言ってるようなもん。

ところが、相続のような重大な話となると、両者で合意しなければ、先に進みません。そういうときは、言葉で伝えるしかない。言葉にして伝えたところで、その言葉の定義も解釈も違う。

友人は、のちのち互いに不快な思いをしないよう、丁寧に慎重に、言葉を交わすことに注力したと言っていました。価値観が違っていても、弟のことは大切だし、愛している。だから、「何で通じないの?わかってよ」という自分の思いを押しつけるのではなく、お互い異なる宇宙で、お互いが気持ち良くいられるにはどうしたらいいかを、一所懸命考えて、合意することに尽力した。弟さんも、そのこと自体にはしっかり取り組んでくれて、たとえ理解できなくても、違いを認め合い、相手を尊重する姿が印象的だったそうです。

個人的には、感情もつれあいの血肉の争いより、ずっと清々しく誠実に感じた一件でした。

異なる宇宙同士の翻訳

どんなフィルターを通して世界を見つめるかは、一人ひとり違います。そのフィルターは、持って生まれた資質も関係するだろうし、人間関係や生活環境も影響するでしょう。中でも、いちばん影響するのは、自分がどんな世界を見たいか、だと思うのです。

友人兄弟は、争いの世界を見る選択ではなく、たとえ理解し合えなくても、互いを尊重し、互いが納得する世界を見たかった。

対話とは、同じ正解を確かめ合う作業ではなく、異なる宇宙同士の、翻訳なのかもしれません。