〜論理と直感をフル稼働させ、万物と呼応し合う〜
目的地がロックされたGPSのように、決められたゴールに向けて効率とスピードを競い合うゲーム。そのボードの上を全力で走りきり、お腹いっぱいになった後に訪れる、静かな違和感。
舗装された道路(スキルや行動)をどれだけ整備しても、そこを歩く自分自身の土台(感性や感覚)との間に齟齬があるとき、心に乾きが残るのはなぜか。
その違和感の正体は、いつの間にか、理屈だけで世界を処理するのが当たり前になり、本来人間が持っている感覚のセンサーが蔑ろになっていたせいかもしれない。
私たちは、理屈をこね回すフェーズから、本来備わっている人間力を発揮して、一つの視点からはとらえられない世界とのつながりに、もっと柔軟に触れる曲がり角に来ているのかもしれません。
カオスのなかで、歌ったエーデルワイス
かつて、アメリカで日本語教師をやっていた頃の、忘れられない記憶があります。
意気揚々と飛び込んだものの、毎日10クラスの授業を一人で作らなければならない日々。インターネットも、スマートフォンも、手本となる教科書もない。英語もカタコトで、授業なんて作ったこともない。そんな、手元のマニュアルがすべて無力化するようなカオスの中に、自ら飛び込んでいたことに後になって気づいたのです。
途方に暮れながらも、こうなったらもう、持ち得る知恵と叡智を総動員するしかありません。いつの間にか全身のセンサーが起動し始めていました。こういうのを火事場の馬鹿力というのでしょうか。
幼稚園のクラスでは、手描きの絵や、和紙で夜な夜な作った紙芝居で日本の文化を伝えました。みんなが知っている歌を日本語の替え歌にして、歌いながら日本語を教える。中学生のクラスでは、画用紙と折り紙で作った手作りのテレビ画面とマイクを渡し、生徒たちにニュースキャスターになりきって天気予報を読んでもらいました。
ホームステイ先は、リタイアした修道女たちが暮らす古いドミトリーでした。英語が不自由だった最初の頃、コミュニケーションの術は言葉ではなく、礼拝堂にあった調律はされていなくても、毎日シスターが磨いているのがよくわかる、大切にされているピアノでした。その鍵盤をたたきながら、みんなが知っている「エーデルワイス」を一緒に歌いました。その響きのなかに、確かに言葉を超えた共鳴が生まれていくのを肌で感じました。
ネイティブアメリカンの学校や金属探知機を通らなければ校内に入れない治安の良くない学校での出張授業も経験しました。黄色人種ならではの差別も受けました。人種や差別の構造に触れるたび、自分はなにも知らない、わかっていない、と痛切に思い知らされました。
いま思えば、あのとき、頭も、身体も、直感も, 感性も、すべてのアンテナをフル稼働させて生きることを試されていたのだと思います。あんなに大変な思いをして、鼻をへし折られたにも関わらず、上機嫌だったのはなぜだろう?きっとそれは、生きている実感を全身で味わっていたからかもしれません。
「頭」「身体」と言った部分の総和が必ずしも全体ではない。すべてをフル稼働させたときに初めて立ち上がる、生命力に満ちた「リアルタイムのなまの知性」の躍動が、生きることなのかもしれない。いまはそんなふうに思っています。
非線形のゆらぎと、日常の解像度
私たちは、頭だけで考えているわけではありません。
おもしろい発見があって。デジタルは、不規則性や非線形(単純な因果関係で説明できない動き)をバグやノイズとして除去します。しかし、実はそのバグやノイズに、自然や人体が奏でる繊細なゆらぎが宿っているのではないかと思います。
デジタルは、「分解して、名前をつけて、カテゴリー分けして、整理し、再配分する」という「部分」の差配をAIを介して超高速で行うのが得意です。ということは、人間は記述することのできない「クオリア(独特の感性)」や「重力を感じること(身体性)」の知恵や叡智を総動員して統合する全体性を生きる時代になっているのかもしれません。
商社という究極の論理の世界で培ったスキルや交渉力。幼少期から育ててきた高純度の感性。このふたつを掛け合わせて駆動してみたい――それが、会社を辞めた一番の理由でした。
商社で培ったスキルや交渉力は、わたしの財産です。今度はそれを、論理の偏りから、感性と融合させて動かしてみたかった。
なぜそう思ったか。はっきりした理由はわかりません。
もしかしたら、二元論の曖昧さや限界を、早いうちから目の当たりにしてきた人生だったので、「論理だけ」「直感だけ」じゃなく、究極の二刀流を磨くのがしっくりきたのかもしれません(笑)。
積み上げてきたスキルは、アップデートされた自分(使い手)が使えば、新たな力を発揮します。
和して同ぜず:万物の呼応
木だけでは、豊かな森にはなりません。
森の中を見渡せば、木があり、土を豊かにする微生物があり、菌があり、風が吹き、水が流れ、鳥や虫がそれぞれ生きています。それらすべての存在が、自分のいのちをまっとうすることで光を放ち、その光が網の目のように呼応し合って、森という生態系が循環しているように思います。
人間もまた、その生態系の一部だと思うのです。
一人ひとりが自らの命の灯を大切に生き(同ぜず)、その放たれた光を世界へ惜しみなく分かち合って、網の目のように呼応し合う(和す)。互いの「異なり」をそのまま歓迎し、一つの有機的な生態系の循環として響き合う。私は、ここに、真の利他のあり方を見ています。
一見、自分には無関係の世界に見えることが、実は私たちの日常に直接つながっている。例えば、富士山の2号目から見ていると、里に下りてきた熊を部分最適(殺処分)にするしかない。でも、もしかしたら8号目から見渡すと、林業の営み、くぬぎの木、川、そして人々の顔が視野に入り、全体最適のつながりの中で手立てが見えてくるかもしれない。これは、ほんの一例です。すでに専門家の人たちが全体像を見渡してくれていることでしょう。でも、専門家ではない私たちにも無関係ではありません。
目の前のコーヒーカップ。このカップの先には人がいます。運んでくれた人、作ってくれた人。陶器の先には土があり、土の先には微生物がいる。どのピースが欠けても、私たちはコーヒーを飲むことさえままならない。
説教くさい教訓ではなく、アングル(観る位置)を高いところや低いところ、目の前やずっと遠くへと柔軟に変えてみる。その観測地点の柔軟性は、見えてなかった世界を見せてくれ、忘れかけていた世界とのつながりを思い出させてくれる優しいまなざしです。
人生の前半ステージで踏んできた場数から得た知見と洞察を、今度は、仲間と共にその探求を、呼応と循環のなかへと軽やかに昇華させていきたいです。
自らのすべてを洗練し、知と感覚を余すことなく分かち合う。
感覚の共鳴基地「&Wonder」で、知と感覚の呼応をご一緒しませんか。