わたしたちの暮らしに、当たり前のように入り込んでいる時間。でも実は、時間というのは目に見えないし、手で触ることもできません。未だ正体不明です。
アインシュタインが、特殊相対性理論の意味を聞かれて、「熱いストーブの上に手を置くと1分が1時間に感じられる。でも、きれいな女の子と座っていると1時間が1分に感じられる」とユーモアたっぷりに答えたという有名なエピソードがあります。ニュートンは「時間は何の影響も受けない絶対の存在だ」と発表したそうだし、約2400年前のアリストテレスは「時間という存在はない」と定義したらしい。
哲学でいう時間、物理学でいう時間、生物学でいう時間。きっと、いろんな定義や切り口があるのでしょう。わたしは学者ではないので、時間に関する主張はもちろんありません。ただ、未だ謎多きミステリアスな存在で、好奇心をそそられることだけは間違いないのです。
ちょっと待ってちょっと待って?
先日、セイコーミュージアムという時計の博物館を訪問しました。
「日時計は人類最古の時計で、紀元前4000年頃エジプトで発明されました。真ん中の棒を北極星に向けて固定し、太陽によってできる影の位置や長さで時刻を知るしくみです」と、時計の博物館を知りつくしたキュレーターさんが説明してくれます。
え、ちょっと待ってちょっと待って?
ってことはさ、もしかして、南半球で日時計が発明されてたら、時計は左回りだったってこと?
一所懸命解説してくれているキュレーターさんの話も聞かず、素朴な疑問が口をついて出てしまいました。
そうか、文明が北半球で始まったから、時計は右回りなんだ。
何かの順番を決めるとき、「じゃあ、時計回りで」なんて、みんな何の疑問も持たずに言っているけれど、あの絶対的な約束事さえ、太陽の影の向きというシンプルな偶然から始まっていたのです。
鐘の音がずれても、暮らせていた
館内には、改暦の紹介とともに、和時計が展示されていました。
日本がいまのような1日24時間の「定時法」になったのは、明治になってから。それまでの「不定時法」は、まず1日を昼と夜に分け、昼を6等分、夜を6等分するやり方です。昼と夜の一単位は長さが違うし、季節によっても変わります。
時計はとても高価なものだったから、庶民は持っていません。寺やお城の鐘楼で、鐘撞き役の人が、和時計を目安に鐘を鳴らして、みんなに時刻を知らせていました。
ということは、です。鐘撞き役の人が居眠りしたら、みんな間違えた時刻で動いていたわけです。それって、めちゃくちゃ面白くないですか!?
きっと当時は、30分なんて誤差の範囲。日が昇れば活動し、日が沈めば休む、自然のリズムに呼吸を合わせた暮らしだったんじゃないかと、勝手に想像しています。
ちなみに、いまの午後2時頃から4時頃は「八刻(やつどき)」と呼ばれていて、それが「おやつ」の語源だそうです。
「明日から1日を24時間にしまーす」
不定時法から定時法に変わったとき、市民はかなり動揺したらしいです。そりゃそうですよね。昨日まで「そろそろ八刻ですね、一休みしましょう」だったのが、今日からは「3時だから間食しましょう」になるわけで。
明治政府の無茶振りには激しくびっくりだけど、そもそも時間って、「明日から1日を24時間にしまーす」って変えられるものなんだ、ということに興味がわきます。
当たり前だと思っていたモノサシは、意外とあっさり変わる。
大震災やパンデミック、予期せぬ事件。当たり前だと思っていたことが、あっという間に当たり前じゃなくなるのは、人生のつきものです。今日と同じ明日があるわけじゃない。
いま固く信じている常識も、案外、あの日時計の影のような、シンプルな偶然の上に載っているだけなのかもしれません。