アンカラの会議室。空気は張り詰め、言葉はまるで剣のように鋭く飛び交います。東京の決裁権限者や法務部とオンラインで繋ぎ、JVパートナーのメンバーと共に、数千億円を超える契約交渉に臨んでいました。わたしは交渉チームの中核メンバーとして、リスク管理と収益性の観点から相手方の提案を精査し、こちらの立場を主張します。こちらも相手も一歩も譲らない硬直状態もあれば、取引条件を提示しては拒否されたり。まるで国際サミットのように、契約書という難解な文書を紡ぎ上げていきます。
緊迫する厳しい交渉に集中して、早2ヶ月。心身ともに疲労困憊したそのとき、相手方が突如、昨日までの主張を180度ひっくり返す大技を繰り出してきました。慎重に練り上げた戦略が、一瞬にして崩れ去る瞬間でした。
もう、やってらんない!
わたしの頭の中で、何かが「ポキッ」と音を立てました。そう、理性という名のストッパーが外れる音です。会社のリスクと収益を背負った責任の重さが、一瞬にして軽くなった瞬間でした。
「カッパドキアに行ってきます!」
会議室を出た瞬間、わたしは現地スタッフに宣言していました。「カッパドキアに行ってきます!」
「へ?!」——スタッフの驚きの表情。それはまるで、堅物の上司が突然「今から街中で逆立ちをしてきます」と言い出したかのようでした。現地駐在員も、ナショナルスタッフも、呆然とした表情でわたしを見つめます。
わたし以外、全員トルコ人のカッパドキア行き長距離バスの中。隣に座ったヒジャブのおばあちゃまは、理解不能な外国語(トルコ語)で一所懸命わたしに話しかけながら、みかんという慈愛の果実を、手に握らせてくれました。その瞬間、複雑な契約条項とは無縁の世界に身を置いている実感が湧いたのです。
全敗の脱出旅
洞窟ホテルが有名なカッパドキア。まるで、地底人の隠れ家のようです。個人的には快適とは言い難かったのですが、少なくとも会議室の椅子よりはマシだと、自分に言い聞かせました。
カッパドキアの代表的な観光と言えば、熱気球です。ホテルの人に無理矢理予約してもらい、翌朝4時半起きで集合場所に向かいます。待てど暮らせど、気球乗り場行きの迎えのバスは来ません。契約交渉のスケジュールよりも不確実だと、苦笑いしてしまいます。
気球からの景色は、どんなだったろう?
気球に乗れずじまいのわたしは思うのでした。少なくとも、契約書の山よりは美しい景色だったに違いありません。
結局、この突発的な脱出旅は、気球には乗れず、洞窟は快適とは言い難く、長距離バスは言葉が通じず・・・と、まるでコメディ映画の一場面のようでした。
真の「高み」からの眺め
アンカラに戻ったわたしは、自分の行為が面白すぎて、一人大ウケしながら、気分も新たに契約交渉に復帰しました。チームメンバーは、わたしの突然の脱出と予想外の復帰に戸惑いながらも、新たな視点を持ち帰ってきたわたしを歓迎してくれました。
計画としては、全敗の旅。それなのに、戻った会議室では、新しい景色が見えていました。
たとえ気球に乗れなくても、うまくいかなかった旅こそが、いちばんの切り札になることがある。それが、真の「高み」からの眺めなのかもしれません。